金曜日

晴。金曜日。

頭痛は変わらずだが、風邪の症状は治まった。昨日ゆっくり出来たおかげで倦怠感も和らいだ。バタバタと朝食、週一回の皮下注射を打って、痛み止めとステロイドをのみ、支度を済ませ、夫に見送られて息子と家を出た。

金曜日は息子を一時保育へ預けている。一時保育を利用するようになって、まる一年が経とうとしている。幸い息子は保育園で過ごす金曜日を楽しんでいる様子だ。行きたくないと言ったり、泣いたりは最初の数回と引っ越しの直後だけだった。保育園で過ごす金曜日も今日を含めてあと2回。4月からは幼稚園での生活が始まる。

息子と別れた後、展示を見に行くため電車に乗ったが、メールを何件か返しているうちに見事に乗り過ごしてしまい、1時間ちょっとで着くはずが2時間かかってしまった。

金曜日を展示を見ることに使うのはいつぶりだろう。少なくとも今年に入ってからは初めてだ。年末からは、引っ越しに伴う作業と通院とで貴重な金曜日は使い果たされてきた。

 

目白のTALION GALLERYで髙柳恵里 “事実” を見た。

迷いの糸を張り詰めた、刺されるような緊張感を、髙柳さんの作品からはいつも感じていた。しかし今回は少し違う印象で、時間を感じる隙間がある。迷いの先で、ものの場所が決まり、やがて第三者の目に触れ、作者がその場所を去った後もあり続けているうち、会期が進むにつれ、ギャラリーのスタッフは段々と慣れてくる。意識されていたことの鮮明さが薄れる。初めて訪れる人の目に触れるとその鮮明さは回復するだろうか。私はここに訪れるのは一度きりだろうが、私が目撃しているのはどの段階なのだろう。黒いチョッキ、泥やコップに入った水、木片、糸などが比較的可変的で周囲の影響をうけやすいものだからか。ギャラリーの床のコンクリートなど、場所の持つ特性との親和性も関係しているだろうか。あるいは、これはもう見ている私の経験値に委ねられている部分なのかもしれない。違和感、緊張感、髙柳さんの作品を見ることで得られるこういった感覚は、見る側にもかなりの部分を任されているのは確かだろう。

カタログに寄せられた沢山遼さんのテキストに写真の残酷さと髙柳さんの作品の残酷さの類似性が指摘されていて、確かにその通りだと頷くのだけれど、それもどちらかと言えば今回の展示を見る前までの方が当てはまる。写真はその先の時間を奪ったうえで、映り込む事実を予測を超えて突きつける。「不意打ち」。意識の風化を拒絶する強烈な「不意打ち」。その鋭さとは少し違う佇まいが今回の作品にはあったように思う。作品集を見ていると、比較的初期は「不意打ち」が意識的に作られていたのが、段々と「不意打ち」との関係がストイックになって、「不意打ち」待ちの時間も作品が内包し始め、見る側の持つ時間と経験にも問いかけ始めたのかもしれない、そんな風にも感じた。

髙柳さんの言葉の中で「私にとって」という表現が多く用いられるのは、そういう「不意打ち」との関係の変遷があったからなのではないかと、勝手に想像した。

 

生意気にも長々と展示の感想などを書いてしまったが、ようやく訪れた展示を見るチャンスにちょうどこの展示に当たったことは、ラッキーとしか言いようがない。

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