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michi suwa

Atomic Storm

弟がバンドで参加している劇「アトミックストーム」を座高円寺で見た。

原発事故後数十年後の日本。

事故の直後に地下に逃げた小学生達と担任、
地上で100基目の原発の完成に浮かれる権力者達とそれを拒絶し続ける人々、
使用済み核燃料の集積場と化した月で働く人々。
地下、地上、月という3層の世界がパラレルに劇は進行する。
地下にいる小学生達と担任は、数十年前の事故当時のまま、歳をとらない。
彼らは、地上はすでに放射能に汚染され、人間は生存していないと信じている。
地上で浮かれる権力者達は、安全神話の復活に躍起になり、反対する声を執拗に潰す。
月には地上を懐かしむ人々。彼らは、何よりも地上との接点が絶えることを恐れている。
地下のユートピア、地上の混沌、天上の墓場。

もしかすると、事故から2年後の同じ時間を過ごしている人々の思い描く未来にも、
この劇で示された3つの世界と同じぐらいの隔たりがあるのではないか。
そういうことなのだろう。

昨年に観たチェルフィッチュの「現在地」は全く毛色は違うものの、
人々の思い描く未来の隔たりという話の骨格は「アトミックストーム」と共通する。
ある村で流れる破滅の噂を信じるか信じないか、その中で起こる静かな諍いと静かな殺人。
怖いのか怖くないのか、その狭間で揺れる私たちの現在地である。
「現在地」では最後には地上を離れて宇宙を目指す人々の姿が暗示されていたが、
それもまた、怖い未来の噂の延長として読むこともできる。

演劇の技術や演出について語る術を待たないので、筋書きについてに留めるが、
同じ事故後を経験した演者の身体が目の前に在ることが、
事故後に演劇することの意味を、否が応でも何重にも厚くしているのだろうと、淡く、考えた。
作りてが、そのことに自覚的であるかどうかの差。
人ごとではなく。