すっかり夏空。
幼稚園で先生が撮ってくれた一枚。
今年は一緒に海に行きたい。
体調は良い。足は相変わらず、すぐに音を上げるし、歩みは遅いままだけれど、腫れは引いている。何より起きて動いていられる時間が増えた。
明日で息子の幼稚園の1学期が終わる。夏休み、2人であちこち出かけたい。夫は試験勉強、頑張れ。
すっかり夏空。
幼稚園で先生が撮ってくれた一枚。
今年は一緒に海に行きたい。
体調は良い。足は相変わらず、すぐに音を上げるし、歩みは遅いままだけれど、腫れは引いている。何より起きて動いていられる時間が増えた。
明日で息子の幼稚園の1学期が終わる。夏休み、2人であちこち出かけたい。夫は試験勉強、頑張れ。
梅雨は明けて、7月。
大学は通常授業の前期が終わり、月末までの他学科の指導を残すのみに。他学科の指導は午前中で終わる。昼食を済ませてまっすぐ帰れば、息子のお迎えに間に合う。今日もそのコースでお迎えへ。池に落ちたり、大事な指輪をなくしたり、色々あった様子。母もいたので甘えも出て、久しぶりにグズグズだった息子。そういう日もあるよ。
体調の変化がめまぐるしい。とても調子良く感じる日もあれば、ただただ痛い日、ただただ怠い日、それらを順繰りに過ごしている。
制作は、展示するかどうかわからない1枚の絵を、ぐるぐる描き続けている。ぐるぐる。あと何回転するか。
暗く湿った空気の日が続く。
金曜日、大学の研究室のテラスから見える濡れた緑に露のベールのグラデーションは美しかった。
遡って火曜日、えいやっと横浜美術館へ。ヌード展、充実した内容でとても楽しめた。神話や史実に動機を得られなくなって以降、純粋な造形的対象物ではなくなっていく裸。個人としてのモデルへの眼差し、エロス、ジェンダー、暴力、晒される裸の政治性、、。こういう視点を持った展覧会が歓迎されている状況はとてもいいなと思った。同時に、今はもうもっと露骨な剥き出しの欲望が其処此処にあって、こんなものではないよという感じも。
展覧会の最後に、学生の頃に好きだったRineke Dijkstraの作品があった。出産後数時間か数日の裸の母親が赤ん坊を抱いて、こちらを見て立っている写真3点。赤い悪露が足を滴っている、下腹部はまだ丸く腰は不安定そうだ。赤ん坊を抱く肩は不自然に強張っている。雑誌でこれを見たのは2000年頃だろうか。身体に刻まれたことも含めて、思い出されることは様々。そんな帰り道、息子の待つ家に急ぐ。
日差しが強い。でも、まだまだ序盤だろう。
木曜は久しぶりに展示を見に都内へ出た。昨日の金曜は大学。今日は母と息子と自由ヶ丘のギャラリーへ。
3日も続けて外出したのは久しぶりだ。痛み止め無しではとても無理だが、それでも出られるようになったことは嬉しい。
木曜日に見た迫鉄平さんの「FLIM」展、「引き延ばされたスナップショット」と形容されていた何も起こらない映像作品がとても面白かった。いつまででも見ていられる不思議、迫さんもBTのインタビューでその感覚を追いたいと話していた。チャプターの区切りやタイトルとその有無に頭の後ろ3分の1くらい引っ張られながら見ていると、「これを待っていたのかも」という感覚がもの凄く緩く、疑問符付きで現れては消えていく。それはプンクトゥムと呼べるような鋭さとはほど遠い感覚だった。この何かを待ってしまうこの悲しい性は何だろう、ダメだ、もう一回見たい、、、。そうなったところで会場を出ることにした。この経験について、まだしばらく考えることになるだろうと思う。
長く間をあけてしまった。
もう6月。
身体を休めつつ、制作のことを考えたり、息子のお迎えに行ったり、大学に行ったり、していた。先週末は息子の幼稚園のバザー、座って出来る受付の仕事をさせてもらった。
身体の方は、動けばあちこち腫れる。次の日はひたすら休めて腫れを引かせる。その繰り返し。足の腫れが関節ではないスネに出てきた。表面の皮膚が薄くピンと張ってツルツルと変な光沢がある。これが良い兆しだといい。
息子は強くなった日差しに焼かれて、どんどん焦げ色になっている。まだまだ丸い肉づきの息子、パンのようにグラデーションが美しい。